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三内丸山遺跡についてabout

平成15年度

総合研究

研究テーマ

三内丸山遺跡の生態史研究 -とくに円筒土器文化の形成と変容・終焉-

研究者

辻誠一郎、市川金丸、紀藤典夫、星雅之、櫻田隆、吉川昌伸、辻圭子、大松しのぶ、茅野嘉雄、川口潤

研究成果概要

 平成10~12年度の3年間にわたって行った特別研究「三内丸山遺跡における人と自然の交渉史-遺跡の時空間的位置づけと生態的特徴の解明を中心として」は、以下の3部にわたって大きな成果を修めることができた。第1部:三内丸山遺跡の高精度編年、第2部:三内丸山遺跡の景観の変遷史と植物資源利用、第3部:青森平野の変遷史と三内丸山遺跡の位置づけ。

 

 これらの成果とその後の三内丸山遺跡および南方の近野遺跡の発掘調査の成果から浮き彫りになってきた問題と課題は以下のように要約される。

 

この総合研究プロジェクトは、 これらの問題と課題設定を受けて、 設定された仮説の実証と円筒式土器文化および関連文化の形成・変容・終焉の実態を解明するために組織されたものである。

 

(1)円筒土器文化の形成が十和田火山の大規模な噴火活動と密接なかかわりをもっている。すなわち、約5900年前 (暦年) の十和田火山の大規模なプリニー式噴火の直後に円筒下層a 式土器が出現し、短期間に東北北部から北海道渡島半島に円筒土器をもつ文化が拡大した可能性が高くなってきた。この事実をもとに、 「十和田火山の巨大噴火が生態的非平衡と社会的秩序の混乱を引き起こした」という仮説が設定された。これを検証するには、 十和田火山の巨大噴火のメカニズムや規模、 巨大噴火が生態系に及ぼした影響、 土器形式の変遷および周辺域の土器形式との関係、 巨大噴火によるテフラTo-Cu の層位関係、 土器以外の文化要素の変遷と土器との関係など事実関係を先ず明らかにしなければならない。

 

(2)三内丸山遺跡では、 円筒式土器に先行する土器形式が確認されており、円筒式土器をもった人々によって初めて集落が営まれたのか、それとも先行する土器をもった人々によってすでに集落が営まれていたのかを明らかにしなければならない。もし先行する集落があったとすれば、 それは円筒式土器をもった人々や文化とどのような相違点をもつのか、また、生態系の中でどのような作用を及ぼしていたのか。

 

(3)三内丸山遺跡では、 円筒式土器のあと南方の大木式土器の影響を受けた土器が続き、 環状配石墓や列状墓、 さらに大型掘立柱建物がその時期に構築されたことが明らかになってきた。しかも続く三つの土器形式の継続時間は、 それまでの円筒式土器とは大きく異なり、 それぞれの形式が数倍の長期間に及ぶことが明らかになってきた。このような変化は集落や文化のどのような変容を意味するのであろうか。

 

(4)三内丸山遺跡では、 円筒下層a 式土器の出現開始とともにクリ林の形成があり、その後クリ林の優占を経て、 突然クリ林の衰退とトチノキ林の形成がもたらされた。「北の谷」では約4000年前のトチノキの貯蔵穴 (あるいは加工施設) が検出されているが、 南方の近野遺跡ではトチノキの加工施設と見られる水場遺構が検出されており、縄文中期のものと考えられている。なぜ、クリ林からトチノキ林への突然の変化と、 クリ資源利用からトチノキ資源利用への変化が起こったのか。それはまた、縄文中期の終焉と関わるのか。

 

 

個人研究

研究テーマ

円筒土器に伴う岩偶の研究

研究者

稲野裕介

研究成果概要

 三内丸山遺跡では2003年8月段階で25点が岩偶として登録されていた。しかし、うち10点は私には岩偶として認識できず、その後、他の石製品に登録されていたものから岩偶と認められるものを抽出し、現在のところ23点を岩偶としている。

 三内丸山遺跡の岩偶は次の3類に区分される。

  • A類 両腕を折り曲げたような表現のもの(前期に位置づけられる)で13点を確認した。
  • B類 A類以外のもので、多くは中期のものであると思われる。7点を確認した。三内丸山 遺跡の中で類型化はできない。1600点が確認されている土偶と比べ、著しく点数が少ない。
  • C類 岩偶以外の可能性のあるもの。

 

 

研究テーマ

三内丸山遺跡出土土器胎土成分の時代的変化に関する研究-円筒土器下層a式から大木10式まで-

研究者

松本建速

研究成果概要

 本研究では、三内丸山遺跡の土器製作の開始期から終末期までの土器胎土の化学成分を測定し、胎土として利用した土に、型式が変化するごと、あるいは時期ごとに違いがあったのか否かを調べた。特に注目したのは、繊維土器である円筒下層式と、繊維を入れない円筒上層式以降とで、土に変化が見られるか否かである。結果を次にまとめる。

(1)本遺跡で土器の利用が始まった頃は、褐色系の粘土等を利用する場合も多かったが、その後、最後の時期土器である大木10式まで、白色系の粘土・シルト・砂が用いられ続けた。

(2)繊維土器である円筒下層式土器と非繊維土器である円筒上層式~大木10式土器とでは、胎土の化学成分はほぼ同じであり、利用された粘土鉱物等に違いがあるとは考えられなかった。繊維土器の発生と終焉は、異なる地質環境においても、土器型式の変化に応じていた。繊維を入れるか否かというのは、慣習であり、社会的問題であると推測した。

 

 

研究テーマ

付着炭化物のAMS炭素14年代測定による円筒土器の年代研究

研究者

小林謙一

研究成果概要

 縄文時代前期から中期の土器付着物30点を採取した。うち、28点について炭素年代測定を行った。

 その結果、同一型式の土器で、付着物の年代が極端に異なる事例が認められるが、その場合、古い方の年代を示した資料のδ13Cが大きい場合が多く、海産物のお焦げの可能性が高い。まだ検討していくべき部分は大きいが、ここでは以下のように較正年代を推定しておく。

  • 三内丸山遺跡のはじめ 芦野Ⅱ~円筒下層a式、前4500-3800年頃、おそらく前4050-3930年(cal BC)頃
  • 前期と中期の境 円筒下層d式と上層a式の境、前3500-3400年(cal BC)頃
  • 三内丸山遺跡のおわり 大木10式、前2880-2660(cal BC)頃

 

 

研究テーマ

ジェンダー考古学からみた縄文土偶と文化的景観

研究者

羽生淳子

研究成果概要

 本研究の目的は、三内丸山遺跡の時間的変遷を、ジェンダー考古学と文化的景観研究の観点から考察することである。三内丸山遺跡から出土した土偶の数は1500点以上ときわめて多数であるが、その大部分は、縄文前期末の円筒下層d式期から中期中葉の榎林期までの七型式期に比定できる。

 本研究では、第一に、石器組成からみた、これらの型式期の位置付けを検討した。第二に、住居址数など、石器以外の考古資料からみたこれらの型式期の特徴を考察した。第三に、三内丸山出土の土偶胎土の化学分析を行い、土偶の文様の特徴と化学的特徴との対応関係を調べた。

 その結果、(1)土偶の隆盛と石器組成、住居址数の変遷との間には一定の相関関係がみられること、(2)このような変化は、生業における男女の貢献度と関連している可能性があること、(3)土偶文様の差異は、土偶自体の交易よりも土偶の製作者である人の移動を反映する可能性が高いこと、等が明らかになった。

 

 

年報

年報 8