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三内丸山遺跡についてabout

縄文時代の扉を開く

 縄文時代は今から約1万2~3千年前に始まり、約2千3百年前に終わりました。その約1万年間を 「縄文時代」 、その文化を 「縄文文化」 と呼んでいます。縄文時代には土器の製作と矢の使用が始まり、ムラが作り始められました。縄文時代より前は 「旧石器時代」、縄文時代の後は 「弥生時代」になります。

 

 

三内丸山遺跡から見えてきたもの

 

交流・交易 環境 集落のようす 技術

 

縄文人の食生活はゴミ捨て場を調べることによって知ることができますし、骨を分析することによって何を食べたのかわかる場合があります。それによると、縄文人の食料の大部分は木の実などの植物性の食料でした。

 

食べ物

 これまでに、たくさんのクリやクルミが出土しており、クリは特に重要だったようです。また、イモ類や山菜も利用されたと考えられるほか、マメ類やヒョウタンなども栽培されていたことがわかっています。

 動物の骨では、普通の縄文遺跡ではシカやイノシシが多いのですが、三内丸山遺跡ではムササビやノウサギなどの小動物が多いことがわかっています。魚類ではマダイ・ブリ・サバ・ヒラメ・ニシン・サメ類などが多く、フグも食べられていました。

 また、当時の調理方法は「焼く」よりも「煮る」が多かったといわれています。

マメの実

 

お酒?

 エゾニワトコを中心に、サルナシ・クワ・キイチゴなどを発酵させた果実酒が作られていたようです。これらの種子は、まとまって多量に出土し、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギなどと一緒に出土していることがこれを裏付けています。

ニワトコの実

 



え:さかいひろこ

 

交流・交易

遠方からヒスイ、黒曜石、琥珀、アスファルトなどが舟を使って運ばれてきました。集落が大きくなる約5000年前から、他地域と活発に交流・交易がさらに行われるようになりました。

 

ヒスイ

約600キロメートル離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれました。原石、加工途中の未完成品、完成品の珠などが見つかっています。非常に硬い石で、その加工は熟練した技術と知識が必要でした。

ヒスイの大珠

 

黒曜石

ガラスとよく似た、鋭く割れる石です。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてきました。 

出土した黒曜石

 

コハク

岩手県北部の久慈周辺から琥珀の原石が運ばれてきました。ここで加工され、他の集落へ運ばれたものと考えられます。

出土したコハク

 

 

環境

縄文の人々は、自然に積極的に働きかけて住みやすくしていました。

 

当時の環境

当時は現在より少し暖かく、年間の平均気温が2度から3度くらい高かったと考えられています。したがって海が現在よりも内陸に入り込んでおり、標高5メートル前後が海岸線と考えられます。

このあたりは集落ができる前はブナやドングリなどがたくさん生えていた豊かな森でした。集落を作るときにクリやクルミを残してそれらの樹木は伐採されてしまい、大部分がクリ林となり、人間が管理していました。集落の中には大きな木はなく、雑草が生えている程度でした。生活しやすいように自然そのものも縄文人が作り替え、維持管理していた様子がわかってきました。

 

ゴミ問題

縄文時代は定住社会であり、単にゴミが増えて不衛生になったというだけでは他の場所に移動することはあまりなかったようです。集落のなかにゴミ捨て場をつくるということで、その解決がはかられていました。

しかし、当時の人はゴミを単なる不要物としてみていたわけではないようです。盛土からはヒスイの玉や土偶もたくさん見つかります。ゴミ捨て場自体がおまつりの場所になったり、物を捨てるということの中に、再び帰ってきて豊かさをもたらすことを祈る気持ちが込められていたともいわれています。

南盛土の断面

 

集落のようす

遺跡の規模は、全体で約42ヘクタールあります。 これは東京ドーム約9個分くらいになります。発掘調査によって集落の構造が少しずつ明らかになってきました。

 

集落の立地

遺跡は八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端にあります。当時は豊かな落葉広葉樹の森が広がっており、クリ、クルミ、山菜などが豊富でした。

また、近くの陸奥湾は、年間平均の波の高さが約30センチメートルと穏やかな内湾で、魚が豊富でした。集落の北側を沖館川が流れており、海にそそぐ河口近くの小高い丘の上に縄文の人々は村を作っていました。

この場所は食料を得る上では好都合でした。海と森の恵みを組み合わせることによって、 一年間この場所 で安定した生活をすることができました。

 

集落の構造

縄文人は土地の使い分けをしていました。特に墓と普段生活している住居は厳密に分けられています。他に家が密集して作られる所、まつりの場所、物をしまう・貯蔵する場所、ゴミ捨て場などを作っていました。


 

縄文時代中期中頃の三内丸山集落の様子


 

大人の墓と子供の墓は区別されていました。また、道路に沿うように墓を配置するなど、墓を作るにはいろいろなきまりがあったようです。

 

大人の墓

集落の東側から大規模な大人の墓地が見つかっています。大人は亡くなると地面に楕円形の穴を掘って埋葬しました。大きさは1~2.5メートルで、手足を伸ばして埋葬されたものと考えられます。中からヒスイのペンダントややじりがまとまって出土した墓もあります。

大人の墓

 

墓の配置

大人の墓は南北を向くように道路をはさんで東西方向2列に、それぞれ足を向けて、向かい合うように配置されていました。

 

墓と道路

2列に並んだ墓の間には道路が通っていました。縄文時代の道路は地面を掘り下げて、浅い溝のようになっていました。幅約12メートル、長さが420メートル以上海の方向へ延び、その両側に大人の墓が並んでいました。

 

環状配石墓

集落の西側から、周りを石で囲んだ、この集落の有力者のものと考えられる墓が見つかっています。直径が約4メートル程で、土を盛っているものもありました。これらは道路にそって斜面に並んでいます。

環状配石墓

 

子供の墓

子供は亡くなると、 普段使っている土器の中に遺体を入れ、埋葬します。 土器の大きさから考えて、おそらくは1才前後の子どもと考えられます。中から丸い石が見つかる場合が多いです。これまでに800基以上の子どもの墓が見つかっています。

子どもの墓

 

技術

漆製品

三内丸山遺跡の低地から赤漆塗りの木製皿などが見つかっているほか、赤色顔料なども見つかっており漆製品が製作されていたと考えられます。縄文時代の前期中頃(約5,500年前)のものです。漆は一本の木からの樹液の採取量が少なく、精製に専門的な技術を必要とします。三内丸山遺跡には、そうした高い技術を持つ人がいたことがわかります。

出土した漆器

出土した漆器

復元した漆器

復元した漆器

 

縄文ポシェット

ヒノキ科の針葉樹の樹皮を素材として編んだ、小さな袋が出土しました。網代編みで作られています。完全な形のものは日本でこれだけです。

縄文ポシェットと中に入っていたクルミ

縄文ポシェットと中に入っていたクルミ