三内丸山遺跡とは
三内丸山遺跡では、平成4年(1992年)から始まった発掘調査で、縄文時代前期~中期(紀元前約3,900~2,200年 現在から約5,900~4,200年前)の大規模な集落跡が見つかりました。たくさんの竪穴建物跡や掘立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などのほか、多量の土器や石器、貴重な木製品、骨角製品などが出土しました。
青森県は遺跡の重要性から、平成6年(1994年)に遺跡の保存を決定しました。平成7年(1995年)から遺跡の整備と公開を行い、平成9年(1997年)3月には史跡に指定され、さらに平成12年(2000年)11月には特別史跡に、平成15年(2003年)5月には出土品1958点が重要文化財に指定されました。また、令和3年(2021年)7月には三内丸山遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されました。
青森県では、縄文時代の「ムラ」を体験できる場所として、三内丸山遺跡の保存・整備・活用をこれからも進めていきます。
大型掘立柱建物跡
地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます。
復元した大型掘立柱建物 |
発掘された大型掘立柱建物跡 |
盛土
竪穴建物や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物をすて、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになりました。土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられます。中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物がたくさん出土しています。
南盛土の断面 |
南盛土から出土したヒスイの大珠(たいしゅ) |
谷
谷はゴミ捨て場として使われていました。水分が多く空気から遮られていたので、土器・石器の他に、通常では残らない木製品や漆器、動物や魚の骨、うろこ、植物の種子、木の実、寄生虫卵などが良好な状態で残っていました。
出土した漆器 |
北の谷 |
竪穴建物跡
縄文時代の住居は地面を掘り込んで床を造りました。中央には炉があります。住居の平面形や柱の配置、炉の位置や構造は時代によって変化が見られます。
復元した竪穴建物 |
発掘された竪穴建物跡 |
大型竪穴建物跡
長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。
復元された大型竪穴建物 |
発掘された大型竪穴建物跡 |
掘立柱建物跡
地面に柱穴を掘り、柱を建てて屋根を支えたものと考えられます。集落の中央、南盛り土西側などから密集して見つかりました。
復元された掘立柱建物 |
発掘された掘立柱建物跡 |
埋設土器
子供は亡くなると、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いた土器の中に入れられ、住居の近くに埋葬されました。土器の中から握り拳大の丸い石が出土する場合が多く、当時の習慣に関係するものと考えられます。
発掘された埋設土器 |
発掘された埋設土器 |
土坑墓
大人は、地面に掘られた円形や楕円形の穴に埋葬されました。大人の墓は集落東側の道路に沿って、両側に2列に配置されていました。
土坑墓 |
環状配石のある土坑墓 |
道路跡
集落の中心から幅約12メートル、長さ420メートルにわたって、海に向かって延びています。道路は地面を少し掘り下げて、浅い溝のようになっているものや、さらに土を貼って「舗装」されているものもあります。最近の調査で、南北にのびる道路も見つかりました。
道路跡(くぼんでいるところが道跡) |
粘土採掘坑
土器を作る時の粘土を採掘した穴です。粒の細かい、粘土に近い火山灰を利用して土器を作っていたようです。
発掘された粘土採掘坑 |
貯蔵穴
集落の外側、台地の縁近くにまとまって造られていました。入り口がせまく底が広い、断面がフラスコ状のものが多く、クリなどの木の実、食料がたくわえられたものと考えられます。中には深さが2メートル近くもある大型のものもあります。
発掘された貯蔵穴 |